高橋博之著『都市と地方をかきまぜる 「食べる通信」の奇跡』と禅思想

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高橋博之著『都市と地方をかきまぜる 「食べる通信」の奇跡』光文社新書、日々隙間なくスケジュールを組み効率化・高速化された都市生活を謳歌している人や、禅に興味のある人に薦めたい一冊だ。

この本の素晴らしいところは、著者が実際に「食べる通信」という具体的な行動を起こし、多くの人たちを巻き込んでいることだ。東北から始まり、巻末には、30地域ほどに「食べる通信」が広まっている様子がうかがえる。着実に新しい世界を切り開くインパクトを起こし始めている。

この本の中で著者は、歴史的に農村から都市に人口が流出する中で、初期には血縁があったものの、世代を追うごとにに血縁も薄くなり、食べるという人間の根本的な営みにおいて、農村が生産者であり、都市が消費者の立場に固定されはじめた。生産者に依存しながら、1円でも安い物を買おうとする消費者という、途切れた関係性を危惧しながら、消費者と生産者の関係性を回復させ、生きていることのリアリティ、すなわち全体性を回復させようとしている。

僕も「食べる通信」はもちろん知っていたが、背景に、この本の内容のような強力な思想があることを知ったのは初めてだ。お恥ずかしい。勉強になった。そして、この本と禅思想の共通性を強く感じた。

今日、禅の修行者が陥りやすい病が二種類ある。一つはロバに乗っていながら驢馬を探し求めること、もう一つは、驢馬に乗ってしまうと降りようとしないことだ。汝らは驢馬に乗っていながら驢馬を探し求める方が重病だというかも知れない。しかし、いいかな、乗っていながら驢馬を探す愚を知るには大なる知恵は要らない。一番深刻な誤りは、驢馬に乗っているのを知った後であえて降りようとしないことだ

鈴木大拙、1962、『禅八講 鈴木大拙 最終講義』角川選書 p.21-22

禅の著作を英訳し世界に届けようとした鈴木大拙が述べる、「驢馬」の比喩がぴったりくる。著者が戒めることも同じだ。生産者という驢馬に乗りながら、その驢馬の存在を知らなかったり、知ろうとしなかったり、知っていたとしても無視したり。

そうすることで、人は、疲弊していく。都市に住んでいる人が、日々のスケジュールに追われ精神的に疲れるのは、多くの人が共感いただけるだろう。

著者は、以下のように虚無感の背景を見立てている。

 都市住民の仕事における虚無感の背景を聞くと、いくつかの型に分けられるようだった。

ひとつは、仕事が細分化されて自分は巨大なプロジェクトのコマのひとつでしかなく、自分がそれに携わる必要性が感じられないという「存在意義喪失型」。

パソコンの前でひたすら数字だけを追っていて、実態に触れたり現場を経験したりすることがないので、何をやっているのかわからなくなるという「やりがい喪失型」。

よく考えれば、自分たちがやっている仕事は自然や他者を搾取した上に成り立っていることに気づき、後ろめたさを感じる「正義希求型」(p.79)

なるほど、これは、僕自身すべて患った症状だ。過去も、そして、時に、今も。

  それでも多くの人は、「食べていくためには仕方ない」という圧倒的な現実を前にして、この病を放置したり、見なかったことにしてやり過ごそうとしている。

現在の資本主義社会は、走り続けることをやめたら途端に倒れてしまう仕組みになっているので、走ることをやめるわけにはいかない。(p.79)

このやりすごしが、危険なのだ。何らかの理由をつけて、自分自身の病を見ないふりをする。自己欺瞞だ。現実直視しないと、いつまでたっても癒せない。例えて言うなれば、身体には休みが必要なのだが、栄養ドリンクを飲み続けながら走り続けるようなものだ。水が必要なのに、酒を飲み続けるようなもの。丸い鍵穴に四角のの鍵を突っ込み続けるようなもの。

どれだけ働けども、どれだけ収入が増えようとも、生きる喜びや生きる実感、生きる意味といった「生」への手応えを感じられない。この「リアリティの喪失」こそが、成熟した消費社会に立ち現われた化け物の正体である。自己欺瞞を繰り返して行けば、化け物に喰われるだけだ。立ち止まり、何が根本かを考え直す必要がある。 (p.174)

ゆっくりと、心落ち着けて、本当に必要な存在を考え直す必要がある。そこで、著者は「生活者」という概念を提唱する。「消費者」と「生産者」が一体となり、共に作るという「生活者」だ。

ここでは、何かを選んで捨てる必要はない。バランスをとるのだ。

都市か田舎か、組織か自立かという極端な選択ではない「中庸の道」。そこを自分のスタイルで進む人が増えてきた。 (p.180)

頭脳と身体、都会と田舎、人工と自然、意識と無意識、西洋と東洋のバランスをはかることに他ならない。

前者(頭脳、都会、人工、意識、西洋)に極端に偏っている今日の世界、私たちの生き方を、後者(身体、田舎、自然、無意識、東洋)に寄せることで、前者の世界は後者の世界に上書きされていく。

上書きの素晴らしいところは、もともとあったものを否定しないことだ。積み重ねられ、更新することは、進化に似ている。(p.184)

と著者も主張している。

冒頭の禅の話の「驢馬」から降りるのだ。そして「驢馬」の目線に立つ。そして、「驢馬」や自分自身という区別を忘れるのだ。すると、新しい存在が出てくる。

究極の経験とは驢馬をも自分自身をも忘れること

鈴木大拙、前出、p.34

生産と消費が越えたその先にある姿。

田んぼは自分自身であり、自分自身は田んぼである(p.211)

僕は、この表現が好きだ。埼玉の自宅でパソコンを打ちながらブログを書いているが、田んぼが目の前に現れてくる。田んぼは自分自身であり、自分自身は田んぼである。繋がりのある大切な存在であり、田んぼが痛むことは、自分自身の痛みなのだ。

ここで、『都市と地方をかきまぜる』という題名を再度見直すと、ちょっと最初とは違うように見えるだろう。イメージしやすい都市と地方の交流人口が増えるというのは入口にすぎない。この本の真骨頂は、生産者と消費者、驢馬と驢馬に乗る人で分けるのではない。田んぼは自分自身であり、自分自身は田んぼであるという全体感の回復が、生きていることのリアリティを回復させるところにあるのだ。

都市生活で疲れてきている人や、禅に興味のある人に進めたい一冊だ。

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