金曜ロードSHOWで、久しぶりに見ました。途中で終えるつもりだったのですが、最後まで引き込まれて見てしまいました。そしてこの映画の意味を改めて考え直しました。
結論から述べると、
「この現代社会の対立は、「もののけ姫」の物語のようにゼロに戻るまで、やまないのかもしれません。しかし、アシタカが奮闘したように、ゼロに戻るまえに、殺戮になる前に、衝突の前に、対立を和らげたい。
そんな想いを改めて確かめた映画でした。」
です。
20年の長い年月を経ても「もののけ姫」は新鮮でした。なぜ、こんなに新鮮に思えたのか?考えてみました。
20年前よりも、現代社会の亀裂が深まっていると思います。各々が主張する正義を実現するために、命を軽んじる、軽んじざるを得ない社会になりつつあります。行きつく先には、紛争とテロとなっています。こうしたニュースに寒々とした気分になることが増えました。
「もののけ姫」の中にも、譲れない正義を掲げた登場人物の対立があります。主義主張がぶつかりあい、妥協できず、相互に貶し合い、憎悪を掻き立て、衝突する。もののけ姫と呼ばれる少女サンは太古から続く自然のために、もののけ姫と呼ぶエボシ御前は自らが作り上げ弱者を救済しているタタラ場のために、ジコ坊は師匠連と呼ぶ権力者たちのために、一歩も引きません。
胸締めつける対立の狭間で生き抜こうとする主人公「アシタカ」の悩みの深さに触れると共に、生きようとする覚悟と行動に心を動かされました。
アシタカも、悲しい運命を背負っている一人です。蝦夷の故郷の村人を守るために放った矢により、異形の神に祟られ、腕に呪いの痣を負っています。この呪いの痣は、やがて深まり死に至る呪いです。呪いを解くカギを探すために、タタラ場へと旅をしていきます。
このアシタカにかけられた呪いは、アシタカに力を授けています。百発百中、一撃必殺の矢を放ち、十人力を与えてくれます。時に弱きを助け、時に仲裁をし、時に窮地を脱する力を与えてくれています。客観的にみれば、ヒーローと呼ぶにふさわしい力です。
しかし、この呪い力をふるえばふるうほど、呪いの痣は深まっていきます。彼自身の悩みは深まっていきます。いかに動機は善であっても、アシタカの体は確実に蝕まれていくのです。
呪いの力を用いることの危険さを理解したアシタカは対話に向かいました。
悲しいかな、アシタカがいかに、対話を呼びかけようとも、対立は一向に収まりません。大きな利益団体に一人で立ち向かうドンキホーテのような存在です。確かに、一部の理解者は現れました。しかし、アシタカに全面的に従う人はなかなか現れませんでした。挙句の果てに、アシタカは、対立に巻き込まれて命を落としそうになります。
皮肉なことに、呪いの力がなければ、アシタカは命を落としていたでしょう。
その後、外部のより大きな力に煽られ、サンとエボシは、全面衝突に至ります。命が道具とされ、軽んじられ、冒涜されます。衝突で、傷つくのは、強者以上に、弱者であることを改めて知る事になります。
衝突の後、それぞれにとって、かけがえの無い存在が失われ、ゼロに戻り、新たな物語が始まろうとするところで映画は終わりです。
全体を振り返ってみると、もののけ姫のサンは自然の代弁者であり、タタラ場の女主人のエボシ御前は、科学の代弁者でした。自然と科学の代弁者がそれぞれの正義を主張し対立を深める中で、アシタカは、新しい物語を築こうとする仲裁者でした。自然も科学も双方の代弁者は大切な存在を代表しており、退けない。対立が衝突に発展し、殺戮に陥るのは、時が流れるのと同じくらいに不可避な対立のように思えます。
衝突を繰り返すうちに、憎しみに身を包まれるタタリ神が生れてしまう。タタリ神は関わるものすべてをタタリに飲み込んでしまう、命を奪う存在です。
「もののけ姫」のコピーは、「生きろ。」です。物語全般を通じて、絶望の中で憎しみに身を委ねることなく、「生きろ。」と訴えかけてきます。
私なりに「生きろ。」を、言葉にすると、力や憎しみに身をゆだねざるをえない絶望的な状況の中でさえも、タタリ神に身を落とすのではなく、自分の命も他者の命も尊重しながら生き抜く道を探す努力の中にいろ、と理解しました。
現代社会の紛争やテロは、国民国家が総力戦を繰り広げた二度の世界大戦とは違う、力を持った個人の不規則なゲリラ戦ようです。恐ろしいことに、技術の進化により、益々個人の力が強まるなかで、絶望の中で憎しみに身を委ねた個人がタタリ神のように人間生活を破壊する巨大な力を持つようなるでしょう。
この現代社会の対立は、「もののけ姫」の物語のようにゼロに戻るまで、やまないのかもしれません。しかし、アシタカが奮闘したように、ゼロに戻るまえに、殺戮になる前に、衝突の前に、対立を和らげたい。
そんな想いを改めて確かめた映画でした。