予想外の評価の活かし方・・・打ちひしがれ、そして、自分の枠を超える機会

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予想外の評価は、何か自分の枠を超えるものが得られる可能性が大きい;

  • 予想外の評価は、自分の枠を超えた新しいメッセージだから、絶好の学習機会になる
  • 自分の煮えたぎる気持ちという条件反射から抜け出て、「評価」を一旦、そこにあるものとして受け止める
  • 予想外だからこそ、力を抜いて、馬鹿になり、いろんな見方をする
  • 「自らの価値観に基づく意識的な選択」が重要(「7つの習慣」スティーブン・コヴィー)
  • 相手と自分の価値観が融合するコラボレーションこそが関係性の極み

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昨日のブログは、中学受験のテストを受けまくる息子に心揺れて、いろいろと思い出してしまった。他人の評価に心を囚われることではなく、自分の心の声と直感に従うことを書いた。

ただ、息子にも別に、評価を無視しろ、と言っているわけではない。他人の評価、特に自分の予想外の評価(どちらかというと悪い方だけど)は、自分の枠を超えた新しいメッセージだから、絶好の学習機会になる。グロービスやCTIなどの専門的な教育機関からフィードバックを得ようとすると、安くない値段になる。進学塾のテストだって、安くない。安くないのは、そこに重要な意味があるから。きちんと活かせば価値になるから。

ただ、予想外の評価は、よく異常値として、無視されたり、ことが多い。

では、予想外の評価とうまく付き合うにはどうすれば良いのだろう?

もう10年以上前のことだけど、僕自身が、会社から「同職位の中で、360度評価が最低の点数」と「評価」を受けたことがあった。最初は、スコアの出し方や意味づけに対して強く反発した。凍りつき、怒りとか後悔とかも出てきた。

ただ、僕の気持がどう凍りつこうが、煮えたぎろうが、最低点の事実は変わらない。繰り返し粘り強くフィードバックする上司から、自己防衛や自己欺瞞、他責にしている僕を見ると、滑稽なのか、いたたまれないのか、愚かしく、めんどくさく思えただろう。大変憂鬱な仕事をさせてしまい、今から思うと、頭が垂れる。

こうした予想外の評価を活かすための大切な第一歩は、自分自身の条件反射に気づくことから始まる。

条件反射に気づく

正しくあらねばならない。そしてなんとしても勝たなければならない、もしくは、服従して自分のものの見方を裏切らなければならない、のうちのどちらが自分の気持ちかに気づく。

ザ・ステーク コーアクティブ・リーダーへの旅ヘンリー・キムジーハウス (著), デビッド・スキビンス (著) CTIジャパン訳

まずは、自分の煮えたぎる気持ちという条件反射から抜け出て、「評価」を一旦、そこにあるものとして受け止める。そして、多面的にみることが大切。言うは易し、行うは難し。(本当に煮えたぎって、頭からどうしても離れないのであれば、違うやり方がある。これは別日のブログで)

当時、僕は、まだ20代半ばだったけど、自分のはまり込んだ見方から抜け出すために、秩父のお寺に足が向いた。当時は日帰りの山登りが好きだったけど、神仏を拝むことは別にしなかった。なのに、「何か」を願って秩父に行った。秩父に行くとは、全くもって、予想外。まさか、「社内で最低」と言われるとは、と相当がっくりきていた証拠だ。別に、もっと大変な思いを持つ方々は多々いるだろうに、キャリアの終わりと思うくらい、心揺らいだ。秩父の観音様に「何か」よくわからないものを願って、ただ歩いた。秩父の、豊かな自然が沁みた。どうやら、「何か」は報われたようで、なんとか受容することができるようになった。

今考えると、この「何か」は、他人と良い関係性を築けるように、との願いだった、と思う。長い人生、他人と関係性を築くことが苦手だった。だからこそ、360度評価は、見事に最低点だった。今も、得意かといわれると、どうだろうか・・・。昔よりは、はるかにマシにはなったけど。

その後も、色々と厳しい評価は、生きていればある。良く、自分自身の講義の中で「失敗は挑戦の証」「失敗しない方が問題」と言っている。厳しい評価は、理想に向けて歩んでいる証。失敗しない、自分の殻に止まっていれば、傷つかない=失敗しない。

で、厳しい評価に接したときに、どうするか?毎回、秩父巡礼する時間はないので、受容するための色んな技を身につけてきた。コツは、力を抜いて、馬鹿になる。例えば、フィードバックに込められた本当の願いを見つめる、人生全体から俯瞰してみる、隠れた前提を探ってみる、弁証法的に真剣に対峙する、他人と話しながら咀嚼してみる、ここら辺まではまとも。風呂から上がって裸で感じてみる、ゲーセンで気晴らしして取り扱ってみる、山元町の広い海と平原が見える堤防の上で叫んでみる、筑波山の山頂で360度パノラマに身を震わしてみる。などなど、受け止める技を増やした。馬鹿みたいなものもあるかと思うけど、意外に馬鹿みたいなものほど、受容力を高めてくれている気がする。だって、予想外=今までの器では受け止めきれない評価なのだから、器を広げて馬鹿になるくらいじゃないと、受け止められないと思う。専門性を持ったプロコーチは、器を広げる手伝いをしてくれた。

なんとかかんとか、受容できてきたら、次は、責任を持って選択をする番だ。頭のネジを何本か抜いて、アッチの世界に行きっぱなしでは、次に進めないので、コッチの世界にもどって、行動していかないといけない。

責任は英語でレスポンシビリティ(Responsibility)という。この言葉の語源を見るとレスポンス(Response:反応)とアビリティ(Ability:能力)という二つの言葉からなっている。主体性のある人はそのレスポンシビリティ「自分の反応を選択する能力」を発揮している。彼らは自分の行動に対する責任をとり、状況や環境、または条件づけのせいにしようとはしない。彼の行動は自らの価値観に基づく意識的な選択の結果であり、状況によって起きる一時的な感情の結果ではない。
『7つの習慣』(スティーブン・R・コヴィー著、川西茂訳)

日本では、失敗したら、「責任をとって辞任しろ」と有形無形の圧力がかかるが、責任の元来の意味は、自分の意見をもって行動して世に問い直すことだ。

もちろん、ここで必要なのは、「自らの価値観に基づく意識的な選択」だ。ここで「他人の考え」に従って選択をすると、「他人の考え」に溺れてしまう。これは、昨日のブログで書いた部分。Follow your heart and intuition !

その時に、もしかすると、別離が起こるかも知れない。新しい関係性が必要になるかもしれない。今まで築いてきた立場を手放すことが必要になるかもしれない。これ、めちゃくちゃ怖い。いろんな恐れに見舞われる。結局、僕は、パラレルな生き方で、少しずつ手放すことになった。いきなり全てを手放す勇気がなかったので。

ただ、僕が本当に願っているのは、別離でも批難をしあうのでもなくて、自分も相手も価値観を場に出しあって、恐れを手放して新しい夢を築き、爆発的な夢と勢いをこの世に立ち現せさせること。僕は、もっともっとこのプロセスを味わいたい。稀にうまくいくと、体が喜びで震えだす。頭のてっぺんからつま先まで、ゾクソクしてくる。前に書いた「ふろぷろ」や「GRA」、そして、GRAから生れた山元ミガキ塾は、ここがうまく行っている例だと思う。新しい社会や世界をつくれるのでは、と信じられる。関係性の極みである、価値観が融合するコラボレーションを、これからも多く作っていきたい。

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